by ma_sori ブログパーツ
最新の記事
以前の記事
2015年 08月 2015年 07月 2015年 04月 2014年 07月 2014年 05月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 08月 2013年 02月 2012年 12月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 05月 2012年 04月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 05月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2009年 10月 カテゴリ
その他のジャンル
|
毎週木曜日にお届けする「たんこんのりjuke box」。
今回はcrying nutを語るに欠かせない曲「말달리자(馬 走ろう)」。 伝えたい内容がたくさんありすぎたため(笑)、2回に分けてご紹介します! 今ではすっかり韓国における「青春讃歌」「パンク讃歌」と形容されるほどの 存在となったこの曲が初めて世の中に出たのは、韓国初のインディーズCD と 言われている「our nation 1」に収録された1996年のことでした。 この曲では繰り返し「닥쳐」(黙れ)という言葉が使われているのですが、 これは日本語の「黙れ」よりもっと強い、「shup up」のように喧嘩を売るような ニュアンスです。ただでさえインパクトのある言葉なのに、それまでは音楽として 聞くことのなかったこのような言葉が地上派の電波に流れたため、 それはもう本当にいろんな人に衝撃を与えました。 ※韓国では1995年までレコードの事前審議があり、刺激のある言葉が事前に 除外されていたため、それまでこのような強いニュアンスのある言葉が 音楽として世の中に出ることはなかったそうです。 その衝撃と開放感は、韓国のインディシーンの胎動として捉えられ、 「말달리자(馬 走ろう)」は若者の間で急速に広がりました。 ※実際に地上派に出て人気が出始めたのは1999年〜2000年頃で 「말달리자(馬 走ろう)」の最初の音源化から3〜4年後のことでした。 韓国の音楽シーンにおいて革命的であったともいえるこの曲について より深く知るために、nutが語った内容をまとめたweb記事を抜粋して あわせて紹介したいと思います。 (出展:http://ch.yes24.com/Article/View/16783) *** そう、やはり僕たちが最初に知られたのは、「マルダルリジャ」だった。 サンヒョクが彼女と別れたことがきっかけで作った歌だけど、 もちろん正確に別れてすぐ作られた歌ではないよ。 曲が頭の中でぐるぐる回っているのになかなか形にならなかったけど、 ある日学校からの帰りに何かがぽんと浮かんだんだ。 それを友達たちにドラムをたたきながら聞かせて、たった5分でできた曲だ。 反応?当時、自分たちの曲が少ししかなかったから、作曲するたび反応が 爆発、爆発、ハハ。 彼女と別れた帰り道、気分が悪くて。「そう、くそ、俺は何も知らねぇ!」と 大声を出した後、ふと考えてみたら「生きるってそんなもんだろう」という気持ちに なったんだ。そうして、この曲ができたようだよ。 ずっと公演をしながらこの曲を歌いまくってた。 クラブでばかり公演してをしていたけど、初めて今のサンサンマダン付近で 野外公演をしたんだ。ちゃんとできるかわからない状態だったけど、来てみたら 人々がいっぱいだったし、うわ、多くの人々が僕たちのことを知っていた。 またびっくりだった。サインなんかも初めてしたし、僕たち同志でお互い芸能人だと 冷やかして、ハハ。その時わかったんだ。僕たちの音楽も人々に近づくことができるって。 歌で、音楽で、幸せになる瞬間だった。あぁ、僕たちの幸せな時間。 ---記者--- 1996年Drugレコードから発売した「our nation 1」にひっそりと収録された 「マルダルリジャ」が世に広まるまでには、3年という時間がかかった。 放送局とラジオのシステムに頼ることのできないインディバンドが自らの曲を 世に広めるのは容易なことではなかった。 Crying Nutは一番正直な方法で問題を解決した。 純粋に、ライブを通して歌を広めていったのだ。 ----------- もちろん、全てのことが順調だったわけではない。 僕たちを取り囲んだ多くのことと毎日戦わなければならない時代もあった。 当時は、音楽をすることが容易くはなかった。昔はクラブでのライブが不法だったし、 僕たちがパンク音楽をする最初のバンドだったというのもあったし。 だから、アイデンティティを模索しながら混乱もしていた。 ある人々は、僕たちがパンクをしているくせに、労働者階級ではないと、 冷ややかに思ったり。僕たちも、そんなことに対して悩みもしたし反発もした。 70年代のイギリスでもなく、ここは大韓民国ではないか。 「朝鮮パンク」という名前をつけながら、そんな観念たちとも戦った。 今より幼かった頃だから、言葉がだめなら体で戦ったりもした、ハハ。 当時は本当にそうだった。僕たちが登場してパンクが社会的に話題となったが、 モダンロックやヘヴィーメタルのシーンなど音楽をする人たちが 僕たちを冷ややかに見たよ。同じ音楽をする立場でこんなことがある? 先輩後輩ではないとしても、互いを認めて交流して、そうしなきゃ ならなかったんじゃない?自分たちの音楽だけをするために他を排除して、 そんなことにむかついた時期もあった。 クク。そう。当時僕たちは始めたばかりで友達はあまりいなくて、 全て敵だった時代だった。 少しずつこつこつとやっていったら、扉が開いていって友達になっていって。 そんな状況でも僕たち同志けんかもしたよ。 理由が何かわかる?酒のコップにタバコが落ちたと言って喧嘩して。 評論家たちともたくさん喧嘩をした。 一緒にお酒を呑みながらも、酔えば文句を言いつけてきた。 「君たちは二村洞(ソウル市内の富裕層の住む町)に住んでいるくせに、 パンクをする資格がない!」そんなふうな攻撃をたくさん受けたよ。 「マルダルリジャ」は、「お前たちにパンクがわかるのか」という問いに対する 僕たちの答えだ。そう。僕たちはわからない。みんな死んでしまえ。 お前が言うことは正しいのか。ハハ そのように評論家たちが問い詰めてきた時、 僕たちはアンダーグラウンドだけにとどまらないことにした。 外に飛び出そう! ストリートパンクショーもして、テレビにも出た。 インディシーンが僕たちを認めないなら、外に出てみようという考えで飛び出した。 それがうまくいたのかどうかわからないけど、 桑田変じて滄海となる(世の中の移り変わりが激しいこと)というのか。 昔は目の前で悪口を言ったり、あまり良くない評論を書いてた人たちが、最近? 僕たちの隣で酒を呑み、公演も企画してくれているよ。 顔、全部記憶しているよ。ハハ。たぶん、彼らはわからないの。 僕たちは世界を征服する日だけを待っているよ。 *** 今では韓国インディ界の頼れる(酔いどれ)兄貴分として、ジャンルを問わず 幅広い交遊関係でシーンを活気づけているcrying nutの90年代とマルダルリジャ。 nutがこのように振り返るマルダルリジャは、発売から14年経った今でも、 毎年、ストレス解消をするのに良い曲の1位に選ばれたり、数々のドラマでも 使用されています。また、今年は午年なので、あちこちでこの曲が引き合いに だされているとのことです^^ part2では当時の動画とともに歌詞の翻訳を紹介します!
by ma_sori
| 2014-01-09 00:03
| -たんこんのり'14-
|
ファン申請 |
||