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韓国で発行されている音楽雑誌『oasis』第2号のCover Storyとして
Crying Nutの記事とインタビューが掲載されています。 記事をざっと翻訳してみました。ちょっと怪しいところもありますが、ごめんなさい! ----------------------------------------------- The Other Side of Crying Nut -1- どうしようもない青春を礼賛するバンド、分節的で単純に反復されるおかしなパンクロックを歌いあげるデビュー17年目のバンド、これが私たちがCrying Nutに対して知っていることの全てだとしたら、私たちはCrying Nutについて何もわかっていないも同然だ。 EDITOR キム ヒョンス PHOTOGRAPHER イ ギテ 20世紀の終わりに立った若者たちは、新しい歌を必要とした。神話のように息をする鯨を捕らえに出ようとか、荒野を駆けよう、という青春賛歌はもはや世紀末の若者たちに有効ではなかった。 IMFという怪物が自身のバラ色の未来を奪って行った、と考えた時代だった。彼らは大学街の酒場で政治と哲学の話をする代わりに、真っ暗なカラオケボックスで声を張り上げ"マルダルリジャ"を歌った。 "マルダルリジャ"は、Crying Nutに翼であり足かせだ。大衆に"マルダルリジャ"はCrying Nutそのものだ。彼らはCrying Nutに、何も考えずに大声を張り上げて歌うことのできるパンク曲を望んだ。おかげでCrying Nutは相対的に、何も考えずに呑めや歌えやと歌いながらどうしようもない青春を礼賛するバンドとして記憶された。Crying Nutについての妥当ではない評価はその時から始まった。 Crying Nutは本当に何も考えずに「皆、死のう!」とだけ叫ぶ青春礼賛バンドなのか?もしCrying Nutを、過激なメロディーと、ゆがんだボーカルで単純に反復される無意味な歌詞を叫ぶバンドだというなら、私はその意見に正面から反論できる。Crying Nutが自ら青春を歌うバンドだと言い、またその言葉に納得する理由は、Crying Nutが青春に欠かすことのできない苦悩をともに歌ったという点だ。 多くの人は過激なメロディーの裏に隠された意味について注目しなかったが、20世紀そして21世紀を通して、彼らの各アルバムには、それぞれの時代の社会問題について苦悩する痕跡をたやすく発見することができる。代表的な曲が「ゲリラ性集中豪雨」だ。 天は開かれた 雲はかかっているだろう 高い高いビルの上に またひとり 下に下に落ちるよ またひとり 下に下に落ちるよ (中略) 眩しい太陽に覆われて 建物の上にひとり立っている 何が悲しいのか汚いのか とめどなく泣いてばかりいる こぼれ落ちる涙を追って 飛んで行く鳥たちを追って 落ちようとする 落ちるんだ 次の番は 俺なのか チャウリムが"落花"で、ゆったりとしたモダンロックを通して自殺を花に例えたとしたら、Crying Nutは陽気なパンクで自殺という悲劇を豪雨の中にほのめかした。"ゲリラ性集中豪雨"でざあざあと落ちるのは雨ではなく、社会からはじかれた人びとだった。しかし、Crying Nutは"自殺"という重い主題を重く厳粛には扱わなかった。軽快なギターの間にこっけいなベース入れ、屋上の手すりに立つ人びとの話をする。自殺という悲劇と、興の乗る演奏がもたらす二律背反。ゆかいなパンク曲のエンディング、次の番は私たちかもしれないという冷めた視点で彼らの歌は不条理劇にもなり、笑おうにも笑えないブラックコメディーにもなる。 ゆがんだ社会を見渡す彼ら独自の視線は、それ以降も続いた。2001年に発表したアルバム「下水恋歌」に収録された"赤い部屋"は、タイトルのとおり遊郭街に関する歌だ。彼らは古典的なパンクロックのように直接的に社会に対する怒りを吐露する代わりに、赤い部屋に座っている18歳の花のような少女の話をした。 赤く染まった悲しい少女 鳥かごの中の鳥は悲しく鳴くよ すれちがう手たちよ 忘れられていった私の名前よ 愛なんて存在しないものなの 白馬に乗った王子様はここにはいないのね (中略) 18歳のおとなしいお姫様は 咲くことができない花だって ほお紅を花のようにさして 疲れた私のあの人を迎えに行くよ アンダーグラウンドのHipHopシーンで吟遊詩人と呼ばれたMCスナイパーが"妓生日記"を歌う1年前の曲だ。Crying Nutもまた美しかった時代、彼らは赤い部屋に俗っぽい好奇心を持つ代わりに、赤い部屋の中に消えていく名前も知らない花について歌うことを選んだ。 軍隊を除隊した後、アルバム「OK牧場の乳牛」でCrying Nutはもう一度大衆的な成功をおさめた。アルバムで最もヒットした曲は"マルダルリジャ"の延長線である"ルクセンブルク"と、"パミギッポンネ"の浪漫を引き継いだ"明洞コーリング"だった。 しかし"明洞コーリング"は「パンク根本主義者」たちによって直接的な批判にさらされた。パンクマニアたちにとって、ソフトであるということは許容できない価値だった。"明洞コーリング"は事によると"パミギッポンネ"に始まった「ソフトなパンク」批判に対する答えだった。批判に歌で応じる洗練された応酬であると同時に、誰が何を言ってもCrying Nutはやりたいことをやるんだ、というばか正直な答えだった。 "明洞コーリング"はアルバム「OK牧場の乳牛」の中でも指折りのヒットを記録した。ソフトなメロディーのためだけではない。"明洞コーリング"の叙情性を支える根幹は、"マルダルリジャ""ピドゥルギ""ルクセンブルク"では考えられなかった歌詞そのものだ。 明け方の星の光 美しい白い雪の上に落ちて 足跡だけ残しておいて 行ってしまうのですか (中略) 不意に思い出たちが ダンスを踊るよ 会いたいかわいい貴女 戻っておいで私の宮殿へ 風が吹けばどこかへ行ってしまう 私の小舟よ 不意に思い出たちが ダンスを踊るよ 少し頑に言うと、歌詞とは詩だ。逆に言うと、歌詞に音階をつけメロディーをつければ歌になる。歌からリズムを除くと、詩になったり、叙事的な随筆になるべきものだ。少なくとも伝えたいことがあるなら、そうだ。"明洞コーリング"はCrying Nutの曲の中にあっても、最も叙情的な曲だ。心地よいメロディーにやさしい歌詞が引き出す情緒が、故ユ ジェハのそれに通じるものがある、と言うのは言い過ぎだろうか。 フォークギターの代わりに革ジャンを着て明洞の別れを歌う朝鮮パンクバンドの、このやりきれない叙情性を変節と言うなら、私はむしろCrying Nutの変節に拍手を送りたい。 ----------------------------------------------- 続きはメンバーのインタビューです。また後ほどupします♪
by ma_sori
| 2012-12-28 12:46
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