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京郷新聞ネット版(2009/9)☆原文は<こちら>
【韓国のインディーレーベル 9】DRUG RECORD 荒い反抗と痛烈なユーモア。パンクの価値を刻む。 1996年1月、ソテジワァアイドゥルは引退を宣言した。それから少し経ったその年の9月、企画者イ・スマンは歌謡界をアイドルの世界に変える野心的なグループ、H.O.Tを世の中に出した。彼の予想は的中した。歌謡界はもう完全にアイドル世界になった。 同じ時期、多くの人が注目しなかったが、また一つの変化が進行していた。この変化は「大型アーティスト」ソテジワァアイドゥルとも、「企画商品」H.O.Tとも違った。両方を否定する「パンク」だった。DRUGがその中心にいた。DRUGは韓国大衆音楽の大きな転換期に登場し、「パンク」という代案を発掘、大衆化させた。以後、根気強くアンダーグラウンドで活動しながら、主流音楽に対する代案または反論のリーダー的な役割を果たしてきた。DRUGのミュージシャン達の荒い疾走と痛烈なユーモアはソウル/バラード・ミュージックと子供向け音楽の洪水の中で、満足を得られなかった大衆に「自由」と「覇気」という創作スローガンを刻印した。DRUGの始まりは即ち韓国インディーの始まりだった。 クライングナットとノーブレインを輩出した「朝鮮パンク」のインキュベーター DRUGは94年7月、弘大前にオープンした。オープンした当初は、音楽を聞き、酒を飲むカフェバーまたは鑑賞室の性格が強かった。後にバンドの公演がもっと多くなった時は、うるさすぎて、酒を飲んだ後、帰ってしまう客もいた。創始期DRUGは今とは全く違った。 変化は翌年、やってきた。 1995年、自殺でその生涯に幕を降ろしたミュージシャン、カート・コバーンの一周忌追悼公演を開いてからだ。この公演は騒がしい「騒乱」そのものであり、楽器もいくつか壊れた。これが事件となり、口コミが広がり始め、DRUGは弘大一帯で最も注目される「ライブクラブ」に台頭した。 DRUGの登場は当時の音楽業界に新鮮な衝撃を与えた。国内ではほとんど見つけることのできなかった「パンク」のライブが見られるクラブだったからだ。 「パンク」はロックの中でも最も荒く、抵抗的な音楽だ。その激しさのため、イギリスやアメリカ現地でもパンクは完全に非主流のジャンルに属する。国内でもたまにパンクを志向する音楽的要素を真似る場合もあったが、このように頭の先からつま先までパンクを志向する集団は初めてだった。その当時、DRUGに出入りした音楽マニア達は誰もがこのように思った。「我々の国にもこんな場所があったんだ!」 96年には単純な「クラブ」DRUGを越え、「レーベル」DRUGに進化した。ライブだけでなく、CD製作にも挑戦したためだ。その最初の結果が「Our Nation」シリーズだ。「Our Nation」は以後、6集までシリーズを出し、クライングナット、イエローキッチン、ノーブレイン、ウィーパー、ジャニーローヤル、レイジーボーン、ビバソウル等韓国インディーを象徴する多くのグループが歌謡界に紹介された。 クライングナットは特にDRUGの歴史に重要なバンドだ。DRUG創始期から苦楽を共にしただけでなく、今では国内インディーを代表するグループとして成長し、「インディーと言えばクライングナット、クライングナットと言えばDRUG」という公式も作られた。DRUGとクライングナットは切っても切れない関係だ。クライングナットがDRUGに初めてやって来て、オーディションを受けた事件は、今でも人々の口にのぼる程有名なエピソードだ。 メンバーのイ・サンヒョクは当時の状況をこう回想する。「その日、DRUGで俺たちは本当にすごかったんだ。あまりにも大騒ぎをしたから、DRUGのオヤジ(DGUG代表イ・ソクムン)が「お前たち、一体何者だ?」と言ったんだ。だから、俺たちは「ロックバンドだ!」と答えたよ。それで、オヤジがオーディションを受けろと言って、DRUGに入るようになった。実際、そのオーディションの時、演奏したって言うより、ジャンプして、飛び回った方が多かったんだ。」 韓国インディーを象徴するレーベルだが、長期間の運営を継続するのは手に余った。2003年12月、DRUGはチャウリムを発掘したブルーデビルと共にDGBD(Drug & Blue Devil)と名前を変えた。また、元々DRUGで育った多くのバンドも今やほとんど去ってしまった。現在DRUGに所属するバンドはクライングナットと代表のイ・ソクムン氏がメンバーの40代のバンドの2チームだけだ。DRUGは2008年現在、一つの「レーベル」というよりは、クライングナットのマネージメント会社という程度に規模が縮小された。 「ハングリー精神で団結した反文化ゲリラとしての注目には、もううんざりだ」 DRUGの代表イ・ソクムン氏は元々土木技師の仕事をしていた。しかし、94年、彼は弘大前の極東放送近くにDRUGをオープンし、アンダーグラウンド音楽と縁を持ち始めた。そして、今や彼は、弘大インディーシーンを代表する人物の中の一人となった。 イ代表は「発掘」に才能がある人物だ。彼はクライングナットの最初のオーディションを見に来た時も、「音楽」というよりは「騒音」「乱闘場」に近かったその舞台を見て、可能性を感じ、ライブの機会を与えた。この拾い上げがなかったら、「マルタルリジャ」や「パミギッポンネ」も生まれていなかったということだ。 普通の音盤製作者なら、「今すぐ出て行け」とどなり散らしただろうが、イ代表は「本当にちゃんとしたら、何かできそうだけど?」という思いを抱いた。後で彼が電話でクライングナットのメンバー達に連絡した時、実際に驚いたのはメンバー自身だった。正直、「弁償しろ」と言われると思ったと言う。しかし、イ代表の予想は的中した。クライングナットは大成功を収めた。可能性が現実になったというわけだ。 クライングナットだけではなかった。 現在、韓国インディー音楽を代表するバンドの中の相当数が彼の手を経て、世に出て行った。クライングナット、ノーブレイン、イエローキッチン、ウィーパー、レイジーボーン、ビバソウル等、全てDRUGを通じてその名が知られた。 イ代表はコンピレーションCD「Our Nation」シリーズを企画し、「新人」発掘に力を注いだ。「Our Nation」はパンクバンドが1チームと、そうではないバンドが1チーム。そのように2チームの音楽をそれぞれ6曲ずつ紹介するコンピレーションCDだった。このアルバムシリーズに触れずに、韓国インディーを説明するのは難しい。先ほど言及したバンド達はみなこの「Our Nation」シリーズを通じて世の中に音楽を出した。 「Our Nation」は流通方式も違った。徹底的にインディーだった。当時インディー製作CDは流通経路が全くなく、多くの大衆に普及させる手段が塞がっていた。しかし、イ代表はクラブ、公演場などを通じて、活発な努力を続けて行き、後にはメジャー流通会社もコンタクトを取ってきた。結局「Our Nation」1集は1万枚以上売れる大成功を収めた。 しかし、ある人たちはこのようなインディー神話の主人公イ代表を指して「変節者」と批判したりもした。インディー志向を掲げながら、主流音楽業界まで包括しようとするイ代表のマーケティング方式が受け入れられなかったからだ。イ代表はインディーに対する固定観念と原論主義を破る果敢さを見せた。 特にクライングナットの3集「下水恋歌」で全国的なスターとなった時、多くの人々が「パンク精神を損なった」と猛批判を浴びせかけた。しかし、イ・ソクムン代表は意に介さなかった。むしろ、これが新しい代案だと考えた。彼が提案した代案はすなわち次のことだった。「ハングリー精神の塊の反文化ゲリラとしての注目は、もううんざりだ。それは、まるで戦地で大義名分のために死んでいく兵士のように、現れては消えて行くインディーバンド達には、自分達を文化消耗品に転落させる表現にしかならない。インディーは主流に吸収されたり、変質されたりはせず、安定した自由の音楽生活ができる集団に浮上されなければならない。そのためには、インディーレーベルの製作者達も苦労しなければならないだろうが、何よりもバンド達とロック愛好者達の開かれた心が要求される。 もちろん、これが主流への迎合を意味するものではなかった。活動舞台は広げても、音盤製作にだけは独立性を固守した。低予算で製作されても、大衆性よりは音楽性がもっと重要視された。口パクもしなかった。芸能プログラムに出て、くだらない冗談を並べることもしなかった。クライングナットの成長速度を見て、時には誘惑もあったかもしれないが、DRUGはそれも容認しなかった。 イ代表はクライングナットの成功がすなわち「インディーバンドという枠へ自ら閉じ込めようとするのではなく、どうにかして多くの人たちに、自分達の音楽を広めようと果てしなく努力したおかげ」だと言ったことがある。クライングナットの成功は結果的に既存の歌謡界とインディー音楽界がさらに接近するきっかけを用意したということだ。 翻訳 by ma。
by ma_sori
| 2010-10-30 10:30
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